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11.06.04.四谷見附橋上より西(四谷)

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写真: 11.06.04.四谷見附橋上より西(四谷)

写真: 四谷見附橋上より東(四谷) 写真: 新宿御苑(新宿区)

渡れば町屋。四谷伝馬町。往時は橋ありませんが。



mixiアルバム「新宿区 四谷/御持組/」
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000046657569&owner_id=32815602
2012年01月06日 03:30

●11.06.04.
・13.01.10.

四谷、若葉、荒木町(あらきちょう)、舟町(ふなまち)、(住吉町)、坂町。
※四谷2丁目、南元町は「西念寺/ 服部半蔵(正成)・松平(徳川)信康/」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000036240970&owner_id=32815602

●四谷――
江戸時代以前は後の内藤新宿町のあたりまでを含めて、潮踏(しおふみ)の里、あるいは潮干(しおほし)の里、よつやの原などと呼ばれるすすき原だった。
よつやという言葉が文献上に始めて登場するのは天正18(1590)年に内藤清成が記述した“天正日記”。清成が調査のために派遣した家臣を道案内した角筈村の関野五郎兵衛は、別名を“よつや五郎兵衛”と言った。このよつやが何を意味するかは不明である。
その後、家康が甲州街道と青梅街道を設置した際、その途中に設けられたのが四谷大木戸で、これが地名としてはじめてつけられた「四谷」である。地名としても諸説紛々あり、どれも適していない。

寛永11(1634)年、江戸城西北に外堀を設置することになる。
立ち退きを余儀なくされた麹町地区の寺社群はこぞりて四谷地区に移転した。須賀町、若葉2丁目(かつての寺町・南寺町)一帯に寺院が多く見られるのは、この集団移転によるもの。
寛永13(1636)年、外堀完成。堀の岸は石垣で築造、併せて見附も設置。今日JR四ッ谷駅付近に見られる四谷見附跡(千代田区六番町)は当時の名残のひとつ。
これにより寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ、商人職人の活動が栄えた。
さらに明暦3(1657)年の明暦の大火が江戸市街の3分の2を焼失する規模のものだったため、大火を逃れ四谷地区などの外堀周辺に移り住んだ人も多かったという。四谷地区は、徐々に江戸市中に組み込まれ、郊外地区から都市部へと変貌していった。
明治27(1894)年、甲武鉄道(現JR中央線)の市街地延伸(立川〜新宿間は開通済)により、四ツ谷駅と信濃町駅が開業。原材料や商品の輸送が容易になり、眞崎鉛筆(現 三菱鉛筆)や岩井商会、村井商会の煙草など、四谷地区の製造業は飛躍的に発展する。

今日、四谷地区という明確に線引きされた地区は存在しないが、行政サービスに於いては、新宿区四谷特別出張所管区域界、四谷警察署管轄区域を指し、これらはほぼ新宿区発足直前の旧四谷区域に準じているようだ。
他には四谷総鎮守である須賀神社の氏子区域とする見方があり、実際にはおよそ旧四谷区域のうち、新宿地区と明治神宮外苑一帯をのぞいた地区(概ね、北は靖国通り、南東はJR、西は外苑西通りに囲われたエリア周辺)の総称。しかし町名上の四谷は、四谷一丁目から四谷四丁目(JR四ツ谷駅から四谷四丁目交差点までの新宿通り沿線エリア)のことで、とても狭い。


※地下鉄路線入り古地図は人文社様m(_ _)m
重ね地図は光村推古書院様ですm(_ _)m

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