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12.03.26.井伊兵部少輔家屋敷跡(台東区浅草橋)

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写真: 12.03.26.井伊兵部少輔家屋敷跡(台東区浅草橋)

写真: 12.03.26.籾御蔵跡(台東区浅草橋) 写真: 12.03.26.左衛門橋より東(台東区浅草橋 ・中央区)

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2012年10月30日 22:29

井伊兵部少輔家――
●井伊直政――
(著名人は簡潔にww)
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑。
永禄4(1561)年?慶長7(1602)年。
従五位下・兵部少輔、従四位下・侍従。贈 従三位(大正)。
天正3(1575)年、近親と流浪・逃亡中の身だった頃に家康に見出された。井伊氏に復することを許され、虎松を万千代と改める。旧領である井伊谷を与えられ、家康の小姓として取り立てられた。
天正10(1582)年、家督を代行していた養母の井伊直虎が亡くなり、正式に当主となる。
“井伊の赤備え”は戦国屈指の精鋭部隊として特に有名。また、徳川氏きっての政治家、外交官としても名高い。
武田氏の旧領である信濃国、甲斐国を併呑したのち、武田家の旧臣達を多数与力に付属させた。また、家康の命により山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を復活させ、「井伊の赤備え」と呼ばれる精鋭部隊を編成し、大将となる。
天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで赤備え初陣。当然のごとく戦功を挙げ、一躍天下に名を知らしめた。まだ小柄な体つきで、顔立ちも少年のようであったらしいが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような前立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。
直政の武力・政治的手腕は豊臣秀吉にも高く評され、家康と秀吉が和解すると、従四位下・侍従(兼兵部少輔)に叙任される。
直政は名護屋城や大坂城などにあって、黒田長政など反石田三成派の諸将と交渉に携わった文書が多数残されている。
秀吉の死後、家康と三成の対立が濃厚になると、僅かな兵のみで上京している家康の身辺に、度々危険が迫る事があったが、その度に直政の機転で難を逃れている。

関ヶ原合戦後、直政は石田三成の旧領 近江国佐和山18万石を与えられた。三成は領民からの信望厚く、直政はこれを認知していたため、「三成のやり方を踏襲する」と早くに触れを出した。領民が三成を弔うことも黙認している。そのため、大した混乱もなく、領民の心をつかむことに成功している。直政は捕縛された三成の面倒を任されていたが、三成に好感を抱くことはなかったという。自分が嫌っていた人間の領地のため、直政納得できず、上野国高崎に戻してもらうよう家康に上申したという。
慶長7(1602)年2月1日、破傷風でこの世を去る。関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないままだった。
直政死後、地元の民衆達の間で三成の亡霊が城下を彷徨っているという噂が広まる。これが家康の耳に入り、その命によって佐和山城を始めとする三成が関わった施設等すべてが取り壊された。その後、彦根城の築城が開始されると同時に佐和山藩は廃藩、彦根藩設置。これ以来、明治に至るまで井伊氏の藩として大いに栄えた。

直政は徳川家中では外様でありながら、家中随一の領国を与えられた。そのため、三河よりの旧臣、譜代からは嫉妬、反発があったが、直政は家康への奉公によってこれを退けたという。しかし、そのあまりもの厳格な忠義ぶりは自分だけにとどまらず、周囲にも強要するほどだった。家臣にはとくに厳しく、些細な失敗も容赦せず、手討ちにすることもが少なくなかったため、「人斬り兵部」と隠喩されたという。直政は気性が激しく、一軍の将となってからも自ら先頭に立って戦う激烈な性格で、短所も多かった。戦時、陣に留まって指揮を執ることはほとんどなく、筆頭家老である木俣守勝がその役目を果たしたという。元より寡黙ということもあるが、家臣に気軽に声をかけることはなかった。直政家臣の中には、直政による厳しい軍律に耐えられず、本多忠勝の下に去る者も多かったという。出奔例としては近藤秀用。筆頭家老の木俣守勝ですら、直政を怖れ、旗本に戻してくれるよう家康に上申している。

大坂冬・夏後、35万石の大大名となった井伊家は、譜代大名の筆頭として幕政に重きをなし、江戸時代264年間を通じて井伊直弼ほか4名の大老を輩出した(直孝は不確か)。
安政5(1858)年より、安政の大獄。のち、安政7(1860)年の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、10万石の減封を受け、徳川家から冷遇されるようになった。
第二次長州征伐。彦根藩は510名の赤備えを出陣させたが、夜間でも目立つ鎧が仇となり、遊撃隊に狙撃され、鎧を脱ぎ捨てて壊走するほどの大敗を喫している。
戊辰戦争。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の先鋒を務めることとなったが、開戦後まもなく、新政府軍に寝返る。この時、兵の全員が井伊氏の象徴たる“井伊の赤備え”の兜や鎧、装備品を脱ぎ捨てたという。
明治時代、伯爵となり、華族に列した。


井伊兵部少輔家。
慶長9(1604)年、嫡子 直勝は近江国彦根に移り築城。
元和元(1615)年、家康の命により弟の掃部頭直孝に藩主の座を譲る。
安中藩3万石へ移封となった直勝は、亡父の官名、兵部少輔を世襲とした。(嫡流)
長男 直勝は病弱だったと伝わる。この系統は、安中藩から西尾藩、掛川藩と転封された。直勝の曾孫、掛川藩主 兵部少輔直朝が精神病だったために(?)改易となる。しかし、宗家 直興(直該) が4男 直矩を兵部少輔家 5代に据え、家名再興・存続が許され、与板藩2万石(陣屋)を与えられた。のち、10代直朗が若年寄となったため、城主格に昇格する。
維新後は子爵、華族に列する。


※掃部頭――
かもんのかみ。掃部寮(かむもりつかさ)の長官。
掃部寮は宮中行事に際して設営を行い、また殿中の清掃を行う職員。そのため、宮中の施設管理・維持を行う主殿寮と職掌が重なるところがあった。伴部(ともべ)の掃部が付属して清掃・設営にあたっている。
(伴部――とものみやつこ。雑任のひとつ。下働きや事務などを行う下級官人。特に工業部門の現業。)


※十六神将――
・酒井忠次(1527年〜1596年)
・本多忠勝(1548年〜1610年)
・榊原康政(1548年〜1606年)
・井伊直政(1561年〜1602年)
(以上、徳川四天王)
・松平康忠(1545年〜1618年)または松平家忠(1555年〜1600年)
・平岩親吉(1542年〜1611年)
・鳥居元忠(1539年〜1600年)
・鳥居忠広(?〜1573年)
・大久保忠世(1532年〜1594年)
・大久保忠佐(1537年〜1613年)
・内藤正成(1528年〜1602年)
・服部正成(1542年〜1596年)
・高木清秀(1526年〜1610年)
・米津常春(1524年〜1612年)
・渡辺守綱(1542年〜1620年)
・蜂屋貞次(1539年〜1564年)または植村家存(家政)(1541年〜1577年)

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