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10.11.02.坂本龍馬像建立(品川区営 北浜川児童遊園)

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写真: 10.11.02.坂本龍馬像建立(品川区営 北浜川児童遊園)

写真: 10.11.02.坂本龍馬像建立(品川区営 北浜川児童遊園) 写真: 14.01.15白玉稲荷神社(東大井2丁目)

mixiアルバム「旧東海道中6 土佐藩/乾退助」記事コピペ――
2010年11月18日 19:23
10.11.02.
●壮士ひとたび去って、また還らず――
「土佐人は薩摩の芋畑を肥やし、時としては長州の蜜柑畑を肥やしたのである」
流血と戦死の犠牲者の数は薩長以上にも関わらず、常に評価は“3番目”の土佐。山内容堂は徹頭徹尾佐幕派であり続けた。脱藩志士を嫌い続けた。
身を捨てて国事に尽くした者たちは全て郷士である。
山内一豊は長曾我部家追放後(関ヶ原で領土没収。大坂でも徳川に敵対し刑死)に占領軍として入国。新規の家来を上方以東で募集し、長曾我部の臣下を一切採用しなかった。それどころか、徹底的に身分差別制度を導入した。遺臣には郷士(下士)として農地開発を強制。武士か農民か区別がつかないような階級に貶めた。山内家士分の者は上士とされ、雨中でも土下座を強いた。この身分差別は厳然と継続される。
上士と郷士の、根づいた反目。
ことごとく去っていく志士は郷士。そしておいしい果実は上士に渡る。後藤象二郎と乾退助。容堂以下上士はみな佐幕思想。この2人も、坂本龍馬、中岡慎太郎に出会おうまではおよそ革命的な思想を持ち合わせていない。しかも知り合うのは慶応3年(1867)春。維新成就目前だ。

※乾退助は江戸勤務の頃かそれ以前か、武力討幕を目指す尊王攘夷派であったとされている。中岡慎太郎とは意見が合致していたことだろう(薩土盟約)。自分を藩主に押し上げてくれた幕府に恩を感じていた山内容堂は公武合体論者。退助はそれとは対照的。自分をさまざまな役職へと導いてくれた吉田東洋が土佐勤皇党によって暗殺された際にも、比較的冷静だったという。
※1867年は水戸藩の衰退、海援隊組織、四候会議失敗、薩土密約(5月)、船中八策、薩土盟約(6月)、後藤象二郎大政奉還建白書提出10/03、朝廷より幕府へ承認の返事10/15、王政復古の大号令12/09。

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