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亀ヶ谷坂切通(鎌倉市)

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写真: 亀ヶ谷坂切通(鎌倉市)

写真: 亀ヶ谷坂切通(鎌倉市) 写真: 亀ヶ谷坂切通(鎌倉市)

mixi記事コピペ――2016年05月14日 12:14

16.05.13.
「鎌倉七切通」
鎌倉は三方を山に囲まれ、防御上非常に有利な地形をしていました。しかし反対に、人や物資の行き来には不便であったため、山の稜線を切り開いて道を作りました。これを切通(きりとおし)と呼びます。切通は鎌倉への出入り口として交通上だけでなく戦略上重要な意味があったため、周辺には有力者の邸宅などが置かれていました。切通のうち重要な七つを七切通、または七口と呼びました。

・朝夷奈切通「あさひなきりとおし」
鎌倉と六浦を結ぶ道で、物資、なかでも塩を運ぶ重要な交通路でした。仁治元(1240)年、北条泰時の命を受けた和田義盛の三男・朝比奈三郎義秀が一夜で切り開いたとされることからこの名が付いたとされます。

・亀ヶ谷坂切通「かめがやつざかきりとおし」
扇ガ谷と山ノ内を結ぶ道で、武蔵方面に通じる要路でした。建長寺の大覚寺池にいた亀がこの坂を上ったところ、急だったため引き帰したという事から亀返坂(かめかえりざか)と言われるようになり、それがいつからか亀ヶ谷になったとも伝えられています。

・仮粧坂切通「けわいざかきりとおし」
藤沢から武蔵方面に抜ける重要な道でした。書物により表記が異なり、化粧・仮装・気生・気和飛などがあります。地名の由来は、討ち取った平家の武将を化粧し首実検したところだからだとか、近くに化粧をした遊女がいたからだとか言われています。新田義貞が鎌倉に攻め入る際に激戦が行なわれ、幕府軍を破った場所でもあります。

・極楽寺坂切通「ごくらくじざかきりとおし」
坂ノ下から七里ガ浜を通って藤沢へ抜ける道となっており、京と鎌倉を行き来する重要な道に当たっていました。極楽寺の開山である忍性が開いたとされます。新田義貞による鎌倉攻めの際、大館宗氏を大将とする軍がここから攻め入ろうとしましたが敗れ、義貞は稲村ガ崎から鎌倉に攻め込むこととなります。

・巨福呂坂切通「こぶくろざかきりとおし」
雪ノ下から山ノ内へ抜ける道にあり、常陸・奥州への交通路となっています。新田義貞が鎌倉に攻め入る際には、堀口貞光を大将とする軍がここから鎌倉に攻め入りました。現在は通り抜け出来ません

・大仏切通「だいぶつきりとおし」
長谷から常盤を経て藤沢に抜ける道に当たっていました。

・名越切通「なごえきりとおし」
鎌倉から三浦半島へ抜ける道です。北条氏が同じ御家人の三浦氏を牽制する点で防御上重要な意味合いを持っていました。
(以上、鎌倉市HP)

参考「KURISEKIHAN」様→ http://matome.naver.jp/m/odai/2141888761168863101
・「鎌倉タイム」→ http://kamakura-guide.jp/kamakura-seven-kiridoshi


「鎌倉市稲村ガ崎 稲村ヶ崎温泉/鎌倉侵攻」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000043697686&owner_id=32815602
「源氏山(鎌倉市)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000043882024&owner_id=32815602
「成就院/極楽寺(鎌倉市)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000072133210&owner_id=32815602
「巨福呂坂(鶴岡八幡宮 ・八幡神/)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000079758893&owner_id=32815602
「鎌倉大仏 (高徳院。鎌倉市)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000043726294&owner_id=32815602


鎌倉巡回マップ
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1jxb6mB3DQV4YD4D4murEy9SF9Rk


●17.06.19.

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